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水と生命生命とは何か? 17 民俗学における生命観
1) 民俗学における生命観
民俗学とは、庶民の暮らしを読み解くための学問で、伝承を重視する学問である。日本・日本人とは何かを問い直していくものである。何げなく行っている行動も、意味があるがそれを知らずに、私たちは生活をしている。民俗学を知ることは、日本を知ることになる。日本人だけではないが、死への恐怖が霊魂や神の存在を想像させるのである。神という観念的実在は、人の死という絶対的命題と結びつけて考えられつづけた。
柳田国男の『先祖の話』
・日本の神観念の中心は、祖先であり祖霊であり、人は亡くなってある年限を過ぎると、ご先祖様または、みたま様という尊い霊体に融け込んでしまうものとしていたようである。
・死者は、その死後ただちに先祖様になるというのではない。死者は死のケガレに満ちた「荒忌あらいみ」の「荒御霊」であり、それが子孫の供養と祭を受けて死のケガレが清まってから先祖の列に加わって行くのだという。(32)
折口信夫の『霊魂の話』『民間伝承学講義(全集ノート編七)』
・日本の“たま”に対する考え方には、歴史的変化がある。日本の「神」は、昔の言葉で表せば、“たま”と称すべきものあった。…“たま”は抽象的なもので、時あって姿を現すものと考えたのが、古い信仰のようである。それが神となり、更にその下に、“もの”と称するものが考えられるようになった。即ち“たま”の善悪に二方面があると考えるようにもなって、人間から見ての、善い部分が「神」になり、邪悪な方面が「もの」として考えられるようになったのである。
・死ぬこと恐ろしい。死んでどこへいくのだろうか。死んでなくなってしまうのだろうか。恐怖心と他界の考えと、それから永遠の考えとがそこに出てくる。…霊魂の存在を認めると、それに対する恐れが起こり、化け物の考え、神の考えが起こる。(33)
上記の内容だけでも、日本の民俗的な生と死と神というものを垣間見ることができるがが、もう少し掘り下げ、日本の生命観を詳しくみていく。「いのち」としての意味をもつ「たま」と「イノチのことばの語源」と「民俗学での他界観」と「ケガレ」観を通して生命観をみていく。この四つにした理由は、日本人の生命観を深い根拠はないが、調べていく中で捉えやすいと考えたためである。しかし、これも詳しくみるとそれだけで、論文がかけてしまうものなので、私が感じたものをピックアップし、日本人というものを考える一つの材料とする。