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養生禅歳をとっても衰えない(ゆらぎ練丹)養生法 24
閑話休題 経緯2
高校時代は、とにかくきついクラブがいいとサッカー部に入部しましたが、ボールより地面や木の根を蹴飛ばし捻挫しまくり、両足首・両膝・両股関節すべて痛め、いつもどこかが痛む状況で、階段は手すりを使わないと登れず、道路の微妙な傾斜も気になるほどでした。このような具合で、2年生の時は半年以上練習に参加できませんでした。この時、整形外科や整骨院に通院しても、少しも良くならなかったのが後に鍼灸師になった理由の一つです。この間サッカーはできませんでしたが、毎日グランドへ出て上半身の筋トレをしていました。半年位たって、足の痛みが薄らいできてから少しずつメディスンボール(砂の入ったボール)を蹴りはじめました。蹴るというより押すようにしたのです。そうしているうち普通のサッカボールが軽く感じられるようになり、普通にボールを蹴ったり走ったりできるようになりました。
高3になってからは空手を始め、砂袋や木・タイヤ・電信柱を蹴るというより押すという感じで足のすねを鍛えましたら、その後は怪我をしなくなりました。接触プレーも恐くなくなり、むしろぶつかってきた相手の方が倒れるようになりました。この当時、1977年頃はリハビリという概念は、まだ世間的ではありませんでした。後にリハビリ病院に勤めた時に、自分は自然にリハビリのトレーニングをしていたのだと氣づきました。
高校3年~20歳まで空手を習いました。最初の頃、いろいろな技が出来るようになっても、恐がりで相手の周りをぐるぐる回るような組み手しか出来ませんでした。組み手の際、普通は「まいりました」と言えば手を止めてくれるのですが、「まいりました」と言った後で10発位、突き蹴りをしないと止めない先輩がいました。そのおかげで、どうせ殴られるならばと、前を向いて耐えたり、微妙に体を左右に動かしてかわし、自分から一突き入れられるようになりました。この頃から、私は逃げ回らなくなりました。しかし、私の体は突き蹴りによるダメージを受けてしまいました。体格差、体重差を痛感したものです。
昭和57年4月~昭和59年7月 建設現場:体作りが大事と思い、肉体労働をしました。
昭和59年8月~昭和63年7月 コンピュータープログラマー:無性に頭を使いたくなり、コンピューターのプログラマーになりました。仕事はダムや道路の水防管理システムでした。ダムのゲート放流量の算出や、ロボットのプログラム中にサイン、コサイン、タンジェント等の数学の知識が必要でしたから、数学を真面目にやっていればよかったと思いました。高校の数学の先生には「将来こういうところで必要になるよ」ということを教えていただきたかったです。
4年ほどたつと、長時間労働により、体の不具合を感じ、体を鍛えなおそうと、キックボクシングのジムに通いました。会長やタイ人のトレーナーの指導がうまく、すぐにカウンターの突きけりが出来るようになりました。これで体による攻防が出来るようになりました。自信もつきました。ですが身長差、体重差による不利。また年齢を重ねると出来ないなどの課題がありました。
アジア放浪 27歳~ 昭和63年(1988)12月~平成3年(1991)7月
インド、タイ、スリランカ、中国、フィリピン、約2年半滞在。
インドでは、ヨガ自然療法病院に3ヶ月半滞在。チベット亡命政府があるダラムサラに1ヵ月半滞在。ダライラマと握手できました。スリランカでは1ヶ月、鍼の講習を受けました。中国では、太極拳の推手を見ました。若い女の子や老人が若い男の人に勝つところを見て、興味を持ち習い始めました。氣功も習いました。この時、潰瘍性大腸炎になっていた友人は、氣功治療を2ヶ月半受け、日本に帰ってからも再発していません。その後、北京で氣功の講習を受け、その時のメンバー5人で、四川省峨眉山とチベットに行きました。この時のさまざまな経験で、ロジカルな思考パターンが180度変わり、精神的世界もありかなと思うようになりました。峨眉山で、らせん状の雲や、薄紫色の帯が地上から空へ立ち上がっているのを見ました。フィリピンでは、8ヶ月スピリチュアルヒーラーのもとに通いました。ヒーラーはオイルマッサージ、鍼、サイキックサージェリー、占い、人生相談、エクソシスト、警察からの以来等、顧客の状況にあわせて様々なことを行っていました。
平成4年4月~平成7年3月鍼灸学校(熱海)
熱海や箱根のホテルでマッサージの仕事をしながら、鍼灸学校に通いました。このころカルロス・カスタネダの「沈黙の力」を読み感銘しました。その後、いろいろな精神世界の本を読みましたが、仏教、道教の古典とカスタネダの著作が私のバイブルになりました。この頃、居合いを習いました。腹(丹田)から刀を抜き、振り、納刀する気持ちの良い時間でした。
また、先輩に勧められて中国武術を習いました。最初は運動不足解消程度にと始めたのですが、今に至るまで影響を受けるとは思いませんでした。先生は私よりも若く、練習も表演用の練習なので、空手やキックボクシングを経験していた私は軽く考えていました。実は先生は中国に留学する前に台湾の伝統武術も修行されていました。そして正月休みに先生に台湾に連れていっていただき、そこで本物のすごさを体感しました。先生の師は少林寺の僧5人の位牌を受け継ぐ人でした。一呼吸の間に何度切り刻まれるかわからない感じで、剣を扱い、九節鞭は足裏で止め、飛ばす技を見せていただきました。九節鞭は手裏剣に鎖がついているような武器です。動きは軽やかで、あっという間に裏をとられてしまいました。武術というより忍術のようでした。「これはあっという間にやられる。」と思い、自分の能力の限界を感じ、武術をやめようと思ったのですが、先生になだめられ、30~60代からでも出来るものがあるからと、最初に習ったのが形意拳でした。この形意拳は太極拳や八卦掌と共に内家拳といい、体の中から力を導く、道教(仙道)の氣の訓練法が入っています。そこから私の武術遍歴が始まりました。当時、先生のお宅に伺っては、ご馳走になり貴重な話や映像を見せていただきました。
30代から、夢想神伝流居合、形意拳、太極拳、大東流合気柔術3年、意拳9年、先生方に指導を受け、氣功、八極拳、八卦掌は短期で習いました。
立禅(意拳)の練習を始めた頃、夜、公園で練習したのですが、冬は顔や手が冷たいし、夏は蚊に食われるし、肩は凝ってくるし、こんなんでいいのだろうかと、よく思っていました。4年くらいしてようやく練習の要領がわかってきました。今は実に素晴らしい訓練法と思っています。
練習が終わると、先生や仲間と食事に行き、お酒も飲んで、先生にぶしつけな質問もしていました。先生も独り身だったので、気軽に答えてくれました。また先輩方から多くのヒントやコツを教わりました。それで理解が進みました。楽しい時代でした。私が先生に「このようにきたら、どのように対処しますか。」と聞くと、笑って、面倒くさそうに「人間は手が2本、足が2本ですね。」と答えてくれたのが印象に残っています。先生は著名な武術家や団体、選手等と交流があり、貴重な話をたくさん聞くことが出来ました。
大東流合気柔術の先生は95歳まで生き、最後まで頭脳明晰で、その技は素晴らしく、今でも私の理解をはるかに超えています。先生は明治生まれで、先生の師は会津の武士です。幕末から明治の気風を髣髴させる人でした。眼光が凄く、龍の目という感じでした。厳しい先生で人をほめることはほとんどありませんでしたが全員の練習を見てくれていました。印象深いのは上位の黒帯の先輩が後輩に指導している時、「君、その人にそんなに激しくやってはいけない、前の若者には、その指導のしかたでよいが、その人の年齢を考えて前の日まで、どういう生活をしていたか感じないといけない。」と注意した時、先生の観察力の鋭さや優しさを感じました。この道場で柔道着が汗でびっしょりになるまで押さえたり投げられたりしているうち、半年もしたら重心が沈んで力の抜けた体になっていました。ここの練習は思いきり力を入れて押さえてくるのを、力を入れずに持ち上げる練習が基本でした。先生が亡くなった時、骨が立派で骨壷に入りきらなかったそうです。当時、私は病院勤めをしていて、薬を多く摂取した人の骨は焼くとぼろぼろになると聞いていましたので、この違いは何なんだろうと思っていました。今、私は「骨と脳神経は生きている間は衰えない」と確信しています。どのように毎日を過ごすか、何を食べ何を考え、どのように体を扱ったかで決まると思います。