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拳意述真という武術の名人達の語録より、
耿誠真先生の要訣
耿誠真先生は言った。
青年時代、拳術を修行していたころ、
私は肝の火が強く燃え、
血気はなはだ盛んだった。
理由もなくしばしば人と不仲になり、
同道の武術家さえ仇敵のように見なした。
そのため自分自身で悩みに落ち込むことが多かった。
この身は拙勁によって拘束され、
技を存分に発することができず、
自分にどれだけの力量があるのかさっぱり分からなかった。
ある友人の紹介で私は深州、
劉奇蘭先生を拝してその門下に加わった。
先生は言った。
この形意拳は気質を変化させる道である。
原初に復帰させるために練るのであって、
後天血気の力を求めるものではない。
と。
最初の段階である明勁を修練して四、五年経ったころ、
全身の気質と腹内の性情が
以前とずいぶん変わっていることに気がついた。
昔を思い返して、他人に対して自分がどんな感情を抱き、
何を言ったかを考えると、いつも心中深く悔悟の念が沸いた。
これより後、暗勁の修練に入って五、六年経ってみると、
心中内外の情景はまた明勁の段階とはちがっていた。
武術同道の人に会うたび意気投合して、
自分よりも腕の立つ人にたいしては率直に賞賛することができた。
しかし、この時、まだ自分の心の中には技法をおしむ、
けちくさい心情が残っていて、
自分の得意技などを軽々しく人に見せる気はなかった。
それから、化勁の修練に入って、また五、六年が経った。
すると、身体の内外、剛柔が一つに合して、
次第に、無へと化していった。
ここに至って初めて腹内が空洞になったかのように、
崑崙として形なく象なく、無我無他の境地に入ったかのようだった。
そのとき以来、私には自他の区別、門派のちがいが消えていった。
武術同道の人に会えば、誰であっても親愛の情が湧いた。
まだ未熟な人に会ったときは、
惜しみなく自分の持てるものを教えたいと思った。
同道の人とたまたま試合することになった時でも、
こちらから人を打ち負かそうという心は起きなかった。
用いた技、発した動きはみな道理に則ったものであり、
入れば必ず自在の方を得る。という自然の術だった。
このとき初めて私は、形意拳とは中和の道理であり、
だからこそ人の気質を変化させ、
道に入ることができるのだということを知ったのである。
私の好きな文章です。
肝が強すぎれば、怒りやすい。そんな気質が拳の修行で、
変化大成していったようすが書かれています。
この武術が道教(仙道)の錬丹法や仏教の禅の影響を受けて
成立していることがうかがわれます。
易、風水、漢方、武術は同じ理論で構成されています。
まさに、この道は気質を変化させる道であり、
原初に復帰させるものですね。
私もこのように進めたらと切に思います。